スウェーデンボルグと霊界
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自力本願と他力本願
一般的な心理療法やカウンセリングを受けてもなかなか思考の歪みの悪癖が解除できない人は、どうすればそこから脱皮できるのでしょうか。
スウェデンボルグと神
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適切なパワースポットを選択
一般的な心理療法やカウンセリングを受けてもなかなか思考の歪みの悪癖が解除できない人は、どうすればそこから脱皮できるのでしょうか。現実問題で、行き詰っている人には一定の特徴があります。パワースポット活用法を併用したことがまったくないか、間違ったやり方で行っているかのどちらかです。自力だけで願いを叶えるのが自力本願。他力に依存して願いを叶えるのが他力本願。このどちらに偏ってもダメで、もっとも好ましい方法は、自力と他力の組み合わせなのです。
心理療法の壁を超える方法とは?
正しいやり方を習得して、実践した人は、環境が変わったり、問題が薄紙をはぐように解決して、心理療法の効果も明確に出てきます。素直に続けた人は、驚くべき開運をとげています。スタート時点がかなり苦境だった人の場合でもその苦境からまずは脱出するところまで到達しています。これに対して実践をしない人は、やっぱり変わりません。また、ちょっとだけかじるように実践し、途中でやめてしまう人も、やっぱり、ちょっとだけしか変わりません。思考を変えましょうといわれても、なかなか変えられない人こそ、この方法が救いとなります。それなのに、そういう人ほど、これを軽視するのです。よくて、「一度いってみたけど、、何も変わりません、、、」というレベルです。
潜在意識と神霊世界の秘密
一度いけば全部変わるなどとは、どこにも書いていないのですが、このように自分勝手に解釈して、とにかく、「できない理由づくり」に励むのです。「できない理由」を考えるのではなく、「どうしたら、できるだろうか」と考えなくては、潜在意識は改善の方向に動いてくれません。「なぜできないんだろう」ではなく、「どうしたらできるかな」です。そして、現実世界での行き詰まりがあるのは、神霊世界でも行き詰っているからなのです。顕在意識での行き詰まりは潜在意識での行き詰まりがあるからおきてきます。まず、目にみえない世界を整えるほうが何倍も早い改善方法だからこそ重視しているのです。
丹波哲郎
丹波哲郎さんは「明るく、素直に、あたたかく」生きることを提唱されました。人生開運の鍵は、「夢と希望」です。人はどんな環境にあっても幸せへの夢と希望を持たねばなりません。自殺すれば地獄のようなあの世で苦しみます。すぐに生まれ変わらされて似たような人生を歩むことになります。試練を生きて乗り越えられるまでこの繰り返しです。ですから自殺はしてはいけないのです。自分の心を明るく前向きにし希望を失わず生きるのが人としての責任であり学びなのです。なぜ、幸運の星のもとに生まれてすいすい生きる人もいれば、不運不幸の人生になる人もいるのか、その原因は前世です。憎しみと敵意にそまってる限り、同じような同類別物が人生に引き寄せられてしまい、心の平安も幸せも実現しないということです。このことの意味がわからない限り、憎しみから自由になれないのです。他人を憎んでいるようでも、結局は自分を呪っているのと効果は同じなのです。その思いと言葉を手放さない限りは解決しません。前世で人を苦しめた分だけ今生では同じ苦しみを自分が味わうことになっています。前世で他人を幸せにした分だけ今生では自分が幸せになります。どの親のもとに生まれるのか、どんな環境を生きるのかも、自分の前世の行動が原因になって自分にめぐってきたのです。
因果応報の法則
今の自分の行動や想いは未来の自分を決めています。未来も来世も今の自分の生き方次第です。あなたがひどい目にあったのは、前世で立場をかえてあなた自身が誰かにその行為をしていたということです。悪口を言われたとしたら、前世ではあなたが、それを誰かに言っていたということです。その仕組みが悟れたら、人生のすべてにおいて、明るく素直に温かく生きていけるはずだと丹波哲郎さんは言います。明るく生きることは人生に夢と希望を持つことにも通じます。霊界の地図を研究した名著があります。丹波哲郎さんの著作の中でも、霊界の地図を研究した名著です。霊界のありさまを詳しく解説しています。因果応報の法則を悟り、自分の過去を悔いるのではなく、志を未来に立てて、魂を磨く生き方が大切です。すべての人間は魂を磨くために生まれ変わっており、この本質以外のすべては砥石の意味しか持ちません。砥石に執着して地獄の想念に陥ることは、自分の未来を不幸にするだけです。すべての人間は自分で自分を幸せにする義務があります。過ぎ去った過去にいつまでもとらわれて自分を苦しめることは自分の魂への攻撃でしかありません。すべての人は因果応報の法則によって報われています。
天国と地獄
つまり、自分を苦しめるのは自分自身なのです。加害者というものはその意味で言えば存在しません。なぜなら、自分がしたことが自分に返ってくるからです。(これは現世での法執行とは別問題です)自分を救うためには、自分の心に志を立てて、魂を磨く生き方をするしかありません。それが万人共通の天命に合致しているので、そうすれば幸福感が自然に湧いてくるのです。救えなかった人がいるという場合、世のために尽くすことで、その代償行為をする人がいますが、それが前向きな道です。飲酒運転の交通事故の被害でわが子を失った親が、飲酒運転の撲滅のため生涯をかけて活動するなどです。 もし、罪の意識を抹消できるとしたら、それは人類救済のために、何かの活動をすることでしか埋め合わせられません。ボランティアでも良いし、慈善事業でも良いし、町の奉仕でも良いです。障害児のケアや、ボランティアの相談活動や、募金活動、被災者への支援など、自分のできることを少しでも行い、愛をもって世を救う活動をすることです。そうすれば代償作用が起きて、罪悪感が抹消できます。本来、愛の活動や世のための事業は、罪滅ぼしのためにするものではありません。本来は人間なら誰でも最終的に目指すべき魂を磨く大事な作務です。しかし、そこへ飛び込むことは、罪の意識を抹消することにもおのずからつながっていくものなのです。魂が磨かれ、幸福感が生じ、罪悪感も抹消されるので、幸せな気持ちで死んでいくことができるため、死後の世界でも天国にいくことができるのです。
パワースポットの活用法の誤りを正す
雑誌や本でパワースポットがさかんに紹介されるようになり、すでに30年以上になります。平成に入り、日本が景気低迷を始めた頃からパワースポットに注目する人が増えてきました。そして、実際にそのパワースポットの奇跡の開運の効果を体験した人がたくさん実在する一方、いくら実践しても、何も変わらないという人も増えてきました。その最大の理由は、使い方の間違いによります。雑誌や本のほとんどが間違った方法を紹介しているので、それを鵜呑みにした人が、そのまま実践して失敗するというパターンが多いです。
パワースポットを必死ではしごする事は無意味
どの部分が誤りかというと、まず、その人にとっての行き先として適切なパワースポットを選択するという時点から間違っている人が多いです。いまだに産土とか氏神といったものを杓子定規に推奨している本や雑誌特集があります。それは根本的に間違っています。また、神社参拝をしたとしても、そのパワースポットの本当のパワーを引き出すことがその人にできていないことが多いです。それは正しく参拝をしていないからです。しばしば紹介されているような二礼二拍手一拝という参拝「だけ」であなたの運命が奇跡の開運を得るほどに変わることはありません。神霊のパワーを本当にあなたが得るには、そのための正しいやり方というものがあります。
喪中における神社参拝
喪中の神社参拝をどうしたらよいか、知らない人も多いです。昔から、喪中には神社に参拝してはいけないとされてきました。それでは喪中とはどのぐらいの期間なのでしょうか。一年あるいは半年でしょうか。地方によっても考え方が若干違うようですが、基本的に49日が過ぎるまでと考えてよいでしょう。この期間は神社参拝を控えるというのが一般的な喪中のしきたりです。家にある神棚に紙を張って、隠したりする風習がある地方もあるようですが、現代においては、そこまでする必要はないでしょう。この考え方は、仏教伝来の後に広まったもので、もともと神道では祖霊社にて祖先を祭るのが普通でした。身内が亡くなったことを喪中として忌み嫌うようになったのは、仏教による葬儀が一般的になってからのことであり、実際にはそれほどこの問題にこだわる必要はないと考えてよいでしょう。49日の間に神社でお祈りしたいことがあったときに行っては行けないのかといえば、そんなこともないようです。お祓いを受けて、清める意味もあり、参拝を勧める場合もあります。そのため、原則は49日の期間を考えておき、臨機応変にすればよろしいでしょう。神棚への参拝も、してはいけないということではありません。むしろ、心を神様に向けて祖霊の幸せを祈るほうがよいかもしれません。
喪中について正しく認識する
女人禁制とか、中世のころにできた慣習には、古代のあり方とはかけ離れたものも多々見受けます。喪中という概念もまた、そういったもののひとつではないでしょうか。本来は、神道では、死を神上がりとも考えて、祖霊を神霊としてあがめていました。死者となった祖霊は神の世界にいき、幽冥の世界から、子孫を守護すると考えられてきたのです。そのため喪中という概念などなかったのです。これと似たものに、女性の生理に対する考え方があります。生理中の女性は不浄であるから、お参りしてはならないというのです。これも中世の仏教的男尊女卑の傾向の強かった時代にできた旧来の陋習といったものです。もっと古代にはこんな決め事は存在しませんでした。現代においては、神道の本質である古代のあり方に戻り、このような不浄という観念にふりまわされることなく、参拝してもよろしいかと思います。神様と人間の交流こそが、神社参拝の本質です。神においては、本来は浄不浄はありません。そもそも元来は、神仏は習合していたのです。
神仏習合は、神職が僧侶もかねていた
あるいは僧侶が神職をかねていたともいえるでしょう。神社の中に神宮寺があり、神社とお寺は一体化していました。今でも、厳島神社や熊野那智大社は、神社のすぐ隣がお寺になっています。こういった歴史を考えても、過度にこだわる必要はないのです。神道で祭られる神様の中にも、出雲の神様のように幽冥界を主宰する神霊もいらっしゃいます。神道の神様は、人間の生と死をつかさどり、生まれるときと死ぬときを定めるともいわれています。人間の死という部分を神道から過度に切り離すようになったのは、本来の神道のあり方からはむしろ外れているとも考えられるのです。
神社と自然と皇室
神社には必ず鎮守の森があります。明治神宮などは、わざわざ全国から献木を10万本も集めて鎮守の森を人工的に造林しています。都会の神社も鎮守の森があるところも多く、都会の自然は私たちの癒しになっています。神社に必ず鎮守の森があるのは、自然の木々や森林や巨木に神様が降りてくるという考え方にもとづいているのです。逆に森がない神社は、霊力が弱い神社ということになります。伊勢神宮など広大な神域に多数の巨木が森林を形成している神社は、中を歩くだけで霊妙な気を感じますね。西洋のキリスト教の教会は、森を切り開いて教会を建てて布教しました。ヨーロッパではゲルマン民族など古来からの民族宗教を持つ民族は、巨木に神が降りてくると信じ、日本人と同じように森を大切にしていました。しかしキリスト教を布教する司祭たちは、巨木を切り倒して教会を建てました。キリスト教がヨーロッパ全土に広まると古い森とともに、ゲルマン民族の古い伝承も消えてしまいました。ゲルマン民族の古い伝承では、氏族は祖先を遡ればゲルマンの神につながっていて、氏族ごとに祖先神を持っていました。こうした信仰もキリスト教の布教によって消えてしまいました。
天皇家の祖先は天照大御神
他の氏族の祖先神の伝承も残っています。「人は祖に基づき、祖は神に基づく」というのが神道の考え方です。例えば、朝廷で摂政や関白という高い地位を代々独占した藤原氏の祖先は天児屋根命(あめのこやねのみこと)という神様です。藤原氏がどれだけ権力を握っても天皇家にとって代わらないのは、藤原氏の祖先神の天児屋根命は、神話の時代、天皇家の祖先を守護し、高天原から天孫ニニギノミコトとともに降臨したからです。自分たちの代で天皇家を滅ぼせば、祖先にあの世であわす顔がないと真剣に考えていたからです。こういう考え方のないヨーロッパや中国では、平気で王様を殺して王朝が交代します。二千年以上も天皇家が存続している秘密はここにもあるのです。
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